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10年越しのお墓参り

高校、大学時代を一緒に過ごした友人「みっちゃん」が就職した年の9月に亡くなって10年経った。
彼の世田谷の実家には毎年お線香をあげに行ってたけど、お墓はご両親の実家の岡山県にあるので今まで一度も行けていなかった。
今年は京都に引越ちゃったのでお線香あげられないなーって思ってたけど、よく考えたら岡山がけっこう近い。ということで初めてお墓参りに行くことに。
岡山県笠岡市に住んでいるみっちゃんのおじいちゃん、おばあちゃんにコンタクトをとってお伺いすると、みっちゃんのお母さんが迎えてくれた。僕がお墓参りに来るのに合わせてわざわざ東京から来てくれたとのこと。なんか逆に申し訳ない。
おじいちゃんの家はテレビに出てきそうないわゆる「田舎のおじいちゃんの家」広い日本建築で池がある庭付き。岡山のおいしいブドウやらお寿司やらをご馳走になった後お墓に。
家からちょっと山を登ったところにあるお墓はとてもいい見晴らし。一番最初にお線香をあげさせてもらった。みんなが僕の後の順番待ちをしているのは分かっていたけど、かなり長い間みっちゃんに話しかけた。彼が亡くなってから10年も経ってしまい、みっちゃんと過ごした時間よりも長い時間が過ぎてしまったわけだけど、お墓に向かってみっちゃんに話しかけたら涙が出てきた。これ以上話しかけてると号泣しちゃうと思って、奥さんに順番を譲った。
お墓参りって誰の為に、何の為にあるんでしょうね。僕は去年おじいちゃんと妻のお父さんが亡くなるまでお墓参りとはほとんど無縁だった。お墓参りをする人は何を求めてるんだろう。あるいは故人が何かを求めてるんだろうか。それとも単なる習慣?
誤解のないように書いとくけど、お墓参りを否定してるわけでもなんでもないです。ただそこにどんな意味があるのか、いまいちピンときてなかった。
でも10年経って初めて友人のお墓参りをして少し分かった。お墓に向かってみっちゃんに話しかけてると、ちょっとだけみっちゃんに会えた気がしたんだよね。返事はしてくれないけど確かに彼に向かって話が出来た。僕の一方的な思い込みかもしれないけど、確かに話せた。
よく、こっちが聞いていようと聞いていまいと一方的に自分のことしゃべる人がいるでしょ?ああいう人って相手に向かって話せればすっきりして満足するんだと思うんだよね。例えは悪いけどそんな感覚なんじゃないかと思う。みっちゃんに聞こえてるのか聞こえてないのか知らんけど、確かに僕はみっちゃんに話しかけた。今はそれだけで満足です。
みっちゃんのおばあちゃんが、今度は泊まりで来て下さいって誘ってくれた。まあ額面通りに受け取るつもりはないけど、京都に住んでる間はちょいちょい会いにこれたら良いと思う。

みっちゃんのお墓から

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